2009年4月17日金曜日

01-00ひたすら3800キロ、序文〜旅立ちまで

あなたは浮谷東次郎という人を知っていますか?


俺の生まれる1年と11ヶ月前の1966年8月、練習中のサーキットへ入り込んでしまった人を避け助けたことにより、不幸にも自身が死んでしまったドライバーだ。

彼については、色々言う人がいる。日本で最初にF1ドライバーになるはずだった人とか、TOYOTA2000GTは彼のために作れたようなものとか。交友関係も広かった。本田宗一郎を始め、有名な俳優、自動車評論家、そしてF1にまで参戦したある大手部品メーカーの社長だとか。幅広い人付き合いをしていた親しまれやすい人だった。

しかし俺には、彼の伝説は関係ない。人柄に引き込まれたのだ。

浮谷東次郎著の本は3冊発刊されている。しかし正確に言うと、本当の著作は最初の「がむしゃら1500キロ」だけで、残りは本人の書いた手紙や日記などを後に親族が構成したものなのである。

俺と東次郎の出会いは、高校1年の夏。その本だった。「がむしゃら〜」は衝撃を、残りの二冊には共感と勇気を受け与えられた。

「がむしゃら〜」のあらすじはこうである。

14歳の少年が、当時は許されていた原付の免許を取り、今では考えられないほど山道に近かった道を走り続け、神戸まで行って帰ってくるまでの10日間1500キロを記した紀行文である。

身体を揺さぶられる程の、ものすごい衝撃を受けた。その勇気に。当時まだ、いじめで荒んだ気持ちを引きずったままの俺を、彼の「がむしゃら〜」は確実に癒してくれたのだ。そしてこの頃から、まったく興味の無かったバイクが気になり始める。

一つ目の夢は、この本と出会ったから生まれたと言っても過言ではない。

原付で日本一周をする。バイクの性能も上がり、国道も立派な舗装が施されている現代では、こんなことをしている人は山ほど居る。でも身体が決して強いとは言えない俺には、実現出来るかどうか?なことだった。残念ながら今持ってその夢は実現出来ていない。不景気が一向に改善しないこのご時世、もし仕事が見つかっても、長期休暇など夢のまた夢。この先もきっと実現は無理かもしれない。だから今この突き落とされた中、方法は違えど、バイクで旅立つことが出来たらどんなに勇気がつくだろう、そう思ったのがこの無謀な旅の切っ掛けだった。

そう、この1年ですっかり自信を失い、だらけきってしまった自分を変えるため。その第一歩にしたかったのだ。寒さが厳しいこの季節に、息を吹き込まれてから15年もたつオンボロバイクでどこまで出来るだろうという挑戦、もし本土最南端へ行き着くことが出来、無事返ってくることが出来たなら、きっと根性も勇気もつくだろうと信じての旅だ。

この1年は色々あった。一昨年仕事を辞め、運命の出会いと感じていた彼女ともその影響で別れることに。そして失恋を引きずりながら平成15年を迎え、もう一度夢を追って生きたいと、バイトで食いつなぐ日々が続いた。

ひとつの夢の入り口には何とか到達することが出来た。でもその影響で蓄えはすっかり無くなり、今は借金生活である。

秋になり働き口を探しにハローワークに行くも、それまでしていた仕事ほどの給料の求職はなく、この年齢。自分は何をするべきか、自分はどう生きていくべきかが頭の中で複雑に交差して、訳が分からなくなる日々が続いていたのだ。

正直、自殺を考えたこともあった。失血で確実に死ぬため、首の皮にまで包丁が行ったこともあった。それは寸前でためらったが、もし借金を返せなくなったら、自分のせいで造った借金なので自己破産なんて惨めなことはしないで死ぬつもりでもいた。おりた生命保険で清算してもらおうと、遺書らしきものまで書いた。だからいつでも死ぬ覚悟は出来ていた。その覚悟は、旅を終えた今でも変わらない。

俺は人には頼れない性格に育ってしまった。ある事件が発端で、苦しく辛い日々が8年近くも続いたのだ。今で言うところのいじめ。申し訳ないが何が切っ掛けだったかは書けない。書くことによって、悪意のない人にまで迷惑が及ぶかもしれないし、今そのことをどうこう言ったとしても、俺自身の傷が癒えるとはとても思えないからだ。

これからの人生を決める大事な時期にうけた衝撃は、ひとりで生きることを自然と選ばせる。いじめの影響が無くなった高校生活も決して楽しいものにはならず、社会人になった今も友人の数は少なく、人と群れることを嫌うようになってしまっていた。

その影は大きかった。将来のことを真剣に考えられなくなっていた。そして親友にも、腹を割った相談も出来ないのだ。仮に相談出来たとしても、解決には決してならない。だが人を信じないわけでもない。むしろ人なつっこい方だと、自分でも思う。

卒業後に出会った友人には、今でも感謝している。

STONEは特に。夢を語った数少ない親友だと、俺は思っている。

学生時代に知り合った殆どの友人達や親・親戚は、俺にこんな暗い影があることを知らない。

このプレッシャー、分かるだろうか?周りからはしっかりした人間と思われ、その期待を背負い息苦しく生きていくことの辛さ。

気にしなければいいじゃないか?と言う人もいる。しかしそう言う人は、いじめの本質を分かっていない。

人間が何年もパターンのように繰り返したこと、しかもそれが本人が生理的に受け付けていないことだったとしたら、どうだろう?数年かけて身体に凍み込んでしまった傷は、決して浅くはないのだ。

残念ながら、父はそんな俺の影を知らない。だから今でも分かり合えていない。これは悔しい。これ以上辛いことはない。かといって父にもあたれない。だから距離を置いてしまうようになってしまった。

話が逸れてしまったように聞こえるが、この旅は、そんな俺のバックボーンがあるから実現出来たことなのかもしれないと言うことを付け加えたい。

だからもし、この文章を読んで通じるものがあったなら、辛さに負けそうになった時は是非勇気を出して何かしら一歩踏み出して欲しい。

それだけはお願いしたい。




旅立ちまでの日々


最初に旅に出ようと思ったのは、仕事を辞めた直後の平成14年9月。

今でなければ出来ない、と言うのが理由だった。目的地は尾道。当時付き合っていた彼女には理由を伝え、ほぼ出発まで決まっていた。しかしその日程を遮るように台風が上陸。やむなく諦める。

その後は友人の手伝い(選挙)を無償で引き受けながらも、その友人と仲間達に勇気をもらい、徐々に自分を取り戻していく。

しかし努力の甲斐もなく選挙は負け。1ヶ月も経たない内に、運命の出会いと感じ1年半付き合った彼女とも

別れることとなる。

やがてせっかく出来た友と会うことも避けるようになり、隠りっきりの生活が始まる。

自分に自信が亡くなってしまったのが一番の原因だった。当然失恋から立ち直れるわけもなく、この頃から死を意識するようになる。


「こんな俺に今何が出来るだろう?」


そう考えた時、真っ先に浮かんだのは日本一周。しかいバイクでの旅は真冬と言うこともあり真っ先に却下となった。

次に思い浮かんだのは、物語を書くこと。高校時代からチビチビと書いていた物語があるのだが、長いストーリーの部分部分だけしか存在せず、おまけにここ5年以上まともに書いてさえいない。書いた時期がバラバラだから、文章も統一が取れていなくこれを仕上げるのは至難の技。

ライフワークと思っているこの物語は、絶対に書き上げたいけど今は無理だと諦めた。そして昔書いた物語を読み返している内に、ストーリーだけを考え全く手つかずの話があったことに気づく。

これなら出来るのでは?とベースとなる歌を繰り返し聞きながら、書き始めた。

当初は原稿用紙2〜300枚程度の予定だった。目標としては1月から書き始めて3月いっぱいには終わらせるつもりでいた。そして終わったら就職口を探そう、と。

しかし、長年のブランクは想像以上に大変で、何度も壁にぶち当たり、書いては止め、飲んだくれては書き始めを繰り返す。

4月になっても終わりは見えず、当初の200枚はすぐに越えていた。

徐々に勘を取り戻しては行くが、一向に終わりは見えず、5月も終わってしまう。

最後まで書き終えたのは7月の終わり。原稿用紙700枚を越えていた。

だがその仕上がりには満足がいかず、借金生活で余裕もないくせに、頭を休めるため夏は何もせず過ごす。

そして9月。再びその物語に向き合い、10月、ついに完成。

原稿用紙800枚を超えていた。削った箇所もあったから、200枚近くを書き直したことになる。

現在その物語は、ある出版社の賞へ送ってある。

もちろん賞なんて取れるとは思ってはいない。これからも趣味で書き続けていく限り、欠点を知っておきたいというのが理由だ。その賞は、編集部が応募作品すべてに目を通し、必ず評価をくれるというのがポイント。その代わり結果が分かるまでには半年近くも掛かってしまう。だから今は結果待ちである。

いつか何らかの形で、皆さんの前に出せるよう、頑張りたいと思います。


さて、恋愛物語を書くことで、やっと失恋から立ち直り仕事を探す気力も生まれた。

しかし現実は厳しく、以前働いていた程の給料の仕事はどれも専門職。資格すらない俺にとっては、そこへの就職は無理な話。ひとつの物語を書き終えて生まれた自信は、いとも簡単に崩れてしまう。

また飲んだくれる毎日が始まった。

逃げることしか考えなくなっていた。一度は消えた死への願望も、再び目の前をかすめるようになる。

最低限の生活しかしていないのに、借金は増えるばかり。

このままじゃいけない。

変えなきゃ行けない。

何かしなきゃ

そう、自分を追いつめた時、再び旅への想いが甦ってきたのだった。



ここからは、「がむしゃら1500キロ」と浮谷東次郎に敬意を払って、日記形式で書きたいと思う。

俺自身の気持ちを、感じていただければ幸いです。




2003/12/14


去年、選挙の手伝いをする前に本気で考えていた旅行を、今また本気で考えている。

あの時は尾道まで2泊3日だったが、今回は違う。10日間で西日本走破だ。

今日テストランを兼ねて、フュージョンで房総一周をした。まともな一周は実に3年4ヶ月ぶり。寒さが身体に堪えるかと、それだけが心配だったが、出発が午前7時45分ー帰宅が午後5時ちょうどという時間帯だったせいか、それ程寒くもなく無事に400キロ走れた。

果たしてこの1年ですっかり身体が弱ってしまった今の俺に、毎日300400キロを、10日間も走り続けられるだろうか?

フュージョンは壊れずに済むだろうか?

でも今回はかなり本気である。


今の俺は燃え尽きることもなく、燻りから抜け出せずに、腐りかけている。

生きることに自信も持てない。

父のこともある。

夢だった原付での日本一周は予算と季節的に無理だけど、この寒い季節に西日本だけでも走ることが出来たなら、自信も沸いてくると思う。

その自信を、未来につなげたい。

もう、今の俺にある望みはこれくらいだから


果たしてKさんは、バイトを急にやめることを了承してくれるだろうか?

明日、俺の熱意次第、だ。



2003/12/15


今日、Kさんと社長に告白した。

Kさんは例によってあっさり。

社長は奥さんと共に親身になって話を聞いてくれて、あまりの優しさと気配りに涙が出てしまった。

今までやってくれていたのは助かるし、急にやめるのは大変だけど、そう考えているなら行くべきだと。本当にうれしくて、本当にありがたくて涙が止まらなかった。

そして同時に、父に、この数分の一の優しさがあれば俺はここまで苦しまないのに、と考えさせられた。

血のつながりはなれ合いを生むのだろうか?それとも互いにわかっているつもりになってしまうのだろうか?

そんな会話さえ成り立たないほど、俺と父は滅茶苦茶。

社長夫妻は、こんな話もしてくれた。

選挙を手伝わせてしまったことで、俺を傷つけたのではないかと、ずっと思っていたと優しい目で。

リフレッシュして、一生懸命仕事を探して、落ち着いて気持ちと時間に余裕ができたら、また手伝ってくれと言われたときには、何度も頭の下がる思いだった。

結局話は1時間近くに及んだ。

この数年の中で、もっとも実のある時間だった。


あとは父の手術結果次第。

こんな時期に旅行なんて考える俺を知ったら、家族や親戚はどう思うだろうな間違いなく勘当だよ。

でもそんなことはもうどうでもいい。

きっと父は、俺が8年間いじめられ続けられていたときのように、恋と未来に悩み誰にも相談できず苦しんでいたときのように、家を出るきっかけになったときのように、選挙を手伝っていた時のように、その理由さえ聞けないのだから。

もう、分かってくれなんて思わないことにした。

今度そんな会話をする機会があったら、怒りを言葉に代えてぶちまけてやる。どれだけ苦しんでいたかを。

今の俺はただ、しっかり自分を見つめ直せるように戻れるよう、そして一刻も早く仕事が見つかるように頑張るしかないんだから。

そう、もう後には引けない。



2003/12/19


眠気もあり、午後11時半には床に入ったのだが、外出前の悪い癖で例によって眠れない。

いよいよ明日は旅立つ。

4時起床、5時出発予定。今年最後の強烈な寒波が通り過ぎようとしていて、明日朝の気温は0度だとか。

そんな中を、南へ目指して走る。目標は九州の最南端。出来ることなら、本州、四国とも最南端、そして九州の最西端にも、帰り道は尾道や郡上八幡も行ってみたい。

予算は10万円。昼飯抜きの毎日なら何とかなるだろう。


さて話は前後するが、ミッションオイルの交換がどうしても出来なくて、夕方5時半にバイク屋に行った。

懐かしかった。

18日に交換したばかりのエンジンオイルを間違って抜かれたが、グレードの良いオイルへ無料で代えてくれたと考えれば、これもかなりお得だと思う。

クラッチのカバーを外したのだが、削れた金属の煤と埃のすごさにびっくり。15年間開けなかっただけのことはある。

そして出て来たオイルの色にまたしてもびっくり。

腐った銀色とはこのことか?どろどろしていてなかなか抜けず、エアコンプレッサーで吐き出す始末。

一通り終え家に帰ろうとバイクに跨ったらUさんが一言。

「空気が全然入ってないな。」

確かにその通りだった。入れたらバイクの軽いこと。

感謝感謝。

走り出すと、心なしか振動も減った気がする。

さて、問題はこのバイクが故障せずどこまで持つか

運を天に任せて、出発だ!


また眠れるかな?

心配だ。



2003/12/20


何とか4時間ほど寝ることが出来た。

荷物を詰め込み、気づいたことがひとつ。三脚が積めない。

諦めよう。

後は出発するだけ。


では、行ってきます!




旅のお供

バイク    ホンダ フュージョン 250cc スクーター 平成元年登録

(知り合いのMさんから譲り受けて早5年 その間の走行距離約10000キロ)

パソコン   APPLE    Powerbook2400c/240

音楽     APPLE    iPod 10GB

写真     CANON    IXY DIGITAL400

ビデオカメラ SONY    DCR-PC101

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